こんにちは、27歳にして5回も転職を繰り返してきたパンダリオン(@pandarion_com)です。
そう、僕は27歳にして5回の転職を繰り返し、今はWeb系企業の社長をしています。
今となっては、なんとか楽しい暮らしができているわけですが、20歳にして初めて就職した頃はどん底からのスタートでした。
そんな僕が初めて就職した原子力発電所。その頃どのような仕事をして、どのように転職を決断したのか。今回はその話をしようと思います。
転職を考えている人、将来に不安を抱えている人にちょっとでも明るい部分を見てもらえたらな〜と思ってこの記事を書いています。
僕が就職したのは2011年4月
僕が初めて就職した(新卒入社)したのが2011年の4月。高等専門学校へ通っていたので、就職先が少ないと言われている中でもある程度の選択肢はありました。
やはり、その時代でも公務員関連は人気ですぐに応募者が埋まる状況。僕も同じように安定を求めて電力関連の会社へ就職希望していたんです。
そんな中見つかったのが、地元福井県の某原子力発電所。
「原子力発電ってライフラインの最先端行ってるし、将来安泰だー!」
なーんて、その頃はかなり楽観的に思っていたんですね。今思えば、かなりおめでたい感じ。
卒業も、就職も決まり、春休みには友達みんなで海外旅行の計画まで立てて就職を楽しみにしていました。学校生活も楽しかったし、就職先も決まってるし、不安なんて何もありませんでした。
しかし……
2011年3月11日の東北大震災(福島沖大地震)
授業を終えて友達の家に集合していると、ニュースで日本が大騒ぎ。地震があったってことでテレビもラジオも東北の話題一色。
友達のお母さんと「ひどい事になってるみたいだね。」なんて、晩御飯をご馳走になりながらテレビに釘付けでした。
その時に友達のお母さんから言われたのが
「明日、大丈夫?」
そう、僕たちは次の日から海外旅行へ行く予定。海外旅行パックで申し込んでいたので、飛行機も取ってあって、ホテルもしっかり手配済み。旅行会社からの連絡もないので
「セントレアからだし、大丈夫でしょ〜。」
なんて気楽に思ってました。実際、テレビニュースでも地震がずっと取り上げられていましたが、大きな地震があった程度でそこまで被害状況は発表されていない。
次の日の飛行機もなんとか飛んでくれて、僕たちは無事に海外へ。
海外のテレビも地震のニュースばかり…でも
初めての海外旅行で僕も友達も大はしゃぎしていたんですが、ホテルへ戻ってテレビを付けると地震のニュースばかり。
東日本大震災って名前は、当時まだ付いていなかったと思います。日本でやばい地震があったぞ!的なニュースは流れていたんですが、海外では「日本の地震」って程度の雰囲気。
海外にいる間、日本の家族や友達とは連絡も取っていなかったので、そこまで大ごとに考えていませんでした。地元は福井県ですし、そこまで被害影響もないだろうって他人事のように思っていたんです。
でも、ニュースの日本語字幕を見ていると死者数がどんどん増えていく。数人単位で表示されていたのに、次につけた時には一桁増えていることも。
地震の震度を測るマグニチュードは9.0、最大震度は7。これは日本近辺で観測されている最大規模の地震だそうです。
地震だけではなく、津波で多くの人が流されたことも知りました。津波なんて今まで海外映画でしか見たことがなく、かなりショッキングな映像。
「これは、結構やばいやつかな…。」
海外旅行中だったんですが、友達みんな不安になってきました。
そんな中、ニュース映像がいきなり切り替わり表示されたのが…
福島第一原子力発電所の事故
そう、福島第一原子力発電所(福島原発)の放射能漏れ。
地震と津波の影響で、福島原電でメルトダウン(核燃料が融解する事)が起き、放射能が外部に漏れる事故がありました。
原子力発電所への就職が決まっていた僕は、原子力の仕組み、核燃料の仕組みや危険性についても勉強していたので、さすがにこの状況には唖然。
放射能が漏れるということは、近辺にいる人の人体へ影響します。通常だと即死レベル。
はだしのゲンって漫画を読んだことがありますか?第2次世界大戦の時、原子力爆弾を落とされた話なんですが、それと同じような状況。
放射能が漏れることによって、人体へ直接被害もありますし、その近辺にある”物”は全て放射線で汚染されます。
死者15,893人、重軽傷者6,152人、行方不明者2,553人
この頃、死者数や負傷者数の発表がどんどん新しくなり、数字が大きくなっていきました。今まで見たことない数字の死傷者数です。
原子力発電所のメルトダウン、死者数1万人越えのニュースを見て、さすがに「これはやばい。」と海外にいる僕たちの間でも不安が。
ニュースで被害の大きさを実感しながら日本へ帰ってからの話もしていたのですが、そんな時に気になっていたのが
「あれ?俺、原子力発電所へ就職なんだけど…。」
晴れて4月に原子力発電所へ入社
震災の状況やニュースに関しては他の記事で細かく取り上げられていますので、ここで僕の就職話へ戻ります。
そう、地震被害は大きかったのですが、僕はそのまま4月に原子力発電所へ入社します。
原子力発電所といっても、本当の発電所内職員としてではなく、外部の協力会社へ入社していました。そのため、所内勤務でも下請け業務的な立ち位置。
社内でも地震の話題は大きく取り上げられていましたが、福井県の原発では業務が進んでいました。
といっても、僕が作業していたのは実験炉だったので保守点検、分析、実験といった業務ばかり。もともと稼働していない原子力発電所なので、春時点では業務も今まで通りだったそうです。
春時点では…。
次々に原子力発電所が運転停止
僕が就職した発電所は、そもそも運転自体をしていない発電所だったので地震の影響はあまりありませんでした。
しかし、周りの稼働中発電所では地震が起きてから様々な影響が。
重点点検、運転停止、中には廃炉の話題が出てくる原子力発電所まで。廃炉、廃炉と叫ばれていましたが、廃炉になるということは僕たちの仕事がなくなるということ。
さすがに、すぐに廃炉が決定するわけもなく、運転停止や見合わせって感じでゆーっくり進んでいました。
運転停止になるということは、その発電所は売り上げがなくなる。
原子力発電所っていうのは、原子力によって電気を発電し、その電気を売ることによって成り立っています。生活に絶対必要な電気を売っているので安泰、って考えが一般化していました。
でも、原子力発電所の運転が停止しているということは、その電気を発電できていないということ。電気を作れていないので売るものがありません。つまり究極の経営悪化状態。
売るものを作れないのに、保守費用はバカみたいにかかる。原子力が止まるということは、何億円っていう単位でお金を垂れ流していくんです。
ただ、安全には変えられない!ということで各発電所はしばらく運転停止。
僕たちの発電所は比較的安泰…?
僕が勤めていた原子力発電所は、「実験炉」として国の実験を行なっていた施設なので、そもそも動いていません。そのため、最初の頃はそこまで影響なかったんです。
稼働していないので、国の予算の中で実験を行う。その実験結果から本格的に稼働するための準備をする。それが僕が勤めていた発電所の役割。
先輩たちも「そもそも動いてねーからな!」みたいに話していたんですが、よくよく考えてみると…
核燃料はしっかり入ってる。
入社1年目にして業務ストップ
そう、動いていないにしても、原子力発電を行う施設なので核燃料はしっかりと補充されています。核燃料がないと、実験すらできませんからね。
核燃料を保有しているということは、それが漏れ出せば大惨事。福島原電の事件と同じ状況が起こり得るんです。
原子力発電所が稼働していないにしても、核燃料を保有しているということで業務が一時的にストップ。これは国からの指示なのでどうしようもない。
最初の頃は、社員さんみんな「仕事が楽になったね〜。」なんて呑気にタバコを吸う毎日だったんですが…。
仕事がないことに対して焦り出す
しばらくしても実験が稼働しないことに対して、どんどん焦りが募っていきました。これは社員さんだけではなく、僕も同じ。
入社1年目にして、長期間仕事がない状態が続くと「このままで大丈夫なんだろうか…?」といった”働かないことに対しての焦り”を感じ始めます。
今思えば、このタイミングで仕事がないことに対しての焦りという感情を感じられたのは大きな経験だったのですが、その時はそんなことも感じていません。ただただ、毎日「このままでいいのかな…。」という気持ちだけ。
予算が削られていく
僕の仕事は、原子力発電所の化学分析業務。分析に使う機器は毎年新しいものを入れる必要があります。
数百円で購入できるものから、中には何百万円もするものまで。しっかりと国から予算を受けて購入していました。これは贅沢ではなく、正確な分析を行うために必要な予算として毎年確保されているお金です。
しかし、業務がストップしてからというもの、原子力発電所に対しての風当たりはどんどんキツイものになっていきました。発電所近くで反対デモ運動が行われるほど。
当然、国としても原子力発電の実験を進めるわけには行かず、ついには予算が大幅に削られました。
必要なものすら購入できない
予算が削られ、今まで購入していたものが購入できなくなる。新調しなくても、業務が行えるのであれば大丈夫です。
でも、あまりに大きな予算削減が急に行われたので、分析現場も対応できませんでした。必要なものすら購入できない。
本来であればしっかりと予算を区切って、業務に必要なものは確実に購入できるよう手配するべきだったのでしょうが、それすらも出来ない状況。
もう、来年から通常の業務を行えません。
将来への不安を感じて転職を決意
2年目からの業務が出来ない。出来たとしても、予定していたような業務は出来ず行き当たりばったりの仕事になることは目に見えていました。
「このままでは、何のために働いているのか分からない。」
そう思った僕はついに転職を決意。
新入社員は”まずは3年”なんて言われていた頃、僕は入社して1年で転職活動を始めました。当然、会社には内緒で。
求人サイトを検索しまくる
転職を決意したものの、初めての経験ですし会社には内緒。相談できる相手もいなかったので、まずはインターネットで求人サイトを見漁りました。
今となっては超有名になったindeedやハローワーク、アスコムなどを検索する毎日。
しかし、インターネットで表示される情報に対してちょっとした疑いの目があったので、求人サイトから転職の申し込みをすることはありませんでした。インターネットから申し込んで失敗するのも怖かったので…。
と言っても、相談する相手もおらずインターネットを見る毎日。
ハローワークへ相談に行く
インターネット上で情報を見ていても、なんだか決定することができず…。実際にハローワーク(職業安定所)へ行ってみることにしました。
当時、僕が住んでいた地域から市内のハローワークまでは車で1時間ほどの距離があり、定期的に通うのは難しい。ということで、ある程度の目星をつけてからハローワークへ行くことに。
いくつかの候補を挙げてハローワークの職員さんに相談すると、その場ですぐに会社へ連絡を取ってくれました。
ハローワークで出されていた求人票には、学歴、経験、年齢など様々な制限がありましたが、幸いなことに新卒2年目ということもあり比較的多くの会社を紹介してもらえました。
その中の一社が
「今から面接どうですか?」
と言ってくれ、その場で面接が決まりました。と言っても、その日は準備が何もできていなかったので別日を設定してもらうことに。
害虫駆除会社への転職が決定
そのあと、2回の面接を経て害虫駆除会社への転職が決まりました。
…そう、原子力発電所で仕事をしていたのですが、その次は害虫駆除の仕事をすることに。これにはちょっとした僕なりの訳があって。
手に職を付けたかった
新卒で初めて入社した会社が
- 自然災害
- 地域の情勢
- 国の判断
などによって経営状態が悪化したこともあり、当時の僕は「手に職をつけるのが一番だ!」と考えるように。そういったこともあり、害虫駆除という別ジャンルへの転職を決意。
今となっては自分で仕事をするフリーランスという働き方もメジャーになってきましたが、僕が就職した頃(2011年頃?)はまだまだフリーランスという働き方は認められていませんでした。
でも、やはりその頃から「会社に何かあったら、自分で仕事をしないと。」的な雰囲気は周りでも強くなってきており、今でいうフリーランスの準備的なものをしている人も多かったです。
僕も会社の経営状況で自分の立場が怪しくなることを経験したので、どんな形でも手に職を付けて自分で仕事するように動き始めたんです。
転職は成功?
実際、転職してからは楽しく働き、勉強好きなこともあってたくさんの資格を取らせてもらいました。
「このまま、害虫駆除業者として独立もアリかな。」
なんて考えるほどのめり込んでいたのですが、結局はまた転職することに。
そのことについては「転職は悪じゃない!27歳で5回の転職を経験した僕が思う転職について。」でも書かせていただきましたので、気になる方はどうぞ。
東日本大震災の影響はこんなところにも
東日本大震災というと、福島県近辺での地震、津波、原子力発電の放射能漏洩などがメインで取り上げられていましたが、実は他の場所へも影響していました。
僕が務めていた原子力発電所も、直接的な影響はなかったものの、時代の流れとともにだんだん下火に…。関連業者もどんどん倒産して行く流れ。
地震だけではなく、地震を発端として日本各地に、また世界に対して影響を与えたのが東日本大震災。
震災と聞くと地震の直接災害だけをイメージされる方がほとんどかと思いますが、実際には経済に対して大きな影響を与えていたんです。新卒の段階でその影響を肌で感じられたのは大きな経験でした。
新卒の時に東日本大震災を経験したことで間接的な経済の動きに対しても敏感に感じるようになり、いろいろなことを考えられるようになったと思います。
今となっては、その時の転職は僕の人生を変える大きなポイントです。